皆さんは映画『国宝』は観に行かれましたか? 私は7月中には映画館に観に行き、たくさんの方がレビューを書いていらっしゃるし、他の方がどう感じたのかと感想を読んでいるのが楽しいしで、自分であえて感想を語らなくてもいいやと満足していたんです。
しかし、興行収入100億どころか150億円も超えて実写映画の歴代2位に達し、アメリカのアカデミー賞の国際長編映画賞の日本代表作品に選ばれるなど、この作品にニュースに触れるたびに最後まで見て「すごい」以外言えなかったことを思い出し、やっぱり自分の言葉で吐き出したいなーとなりました。
ということで今回は映画『国宝』について語っていきたいと思います。
観に行きたくなった理由
『国宝』を観ようとなったのは、7月。気になってはいましたが、上映時間3時間という長丁場で、チケット買って観に行ってnot for meってことになったら悲惨だなという気持ちが先に立ち、しばらく様子見をしていたんです。
でも聞こえてくるのは褒める言葉ばかり。そういうのって映画の宣伝も兼ねてるしなーと警戒しつつ、レビューを漁っていました。「3時間があっという間だった」と手放しで高評価を付けているレビューだけでなく、低評価を付けているレビューでも「面白くなかったけどすごいとは思った」みたいな書き方をされていることが多いようだし、どうやら歌舞伎界の方も観たらしいというのをネットの記事などで見かけるし、ならばということで相方も誘って観に行くことにしました。
原作は読んでいませんし、歌舞伎の知識はほぼ無いですし、日本舞踊に至っては興味無し。ドラマもほぼ見ないため吉沢亮さんも横浜流星さんも特別意識して出演された作品を見たことはなく、CMでのイメージくらいしかありません。でも美しいおふたりの演技を映画館の大きなスクリーンで見たいなぁという下心が、ムクムクと頭をもたげるのを感じました。やっぱりイケメンは眼福ですからね。
ですが、ただ吉沢亮さんと横浜流星さんという美しい2人がW主演する映画というだけなら、私はこんなに興味は持たなかったし、観に行こうとも思わなかったでしょう。私の背中をグイッと力強く押し映画館に向かわせたのは、『国宝』が「歌舞伎」を題材にした映画だということなんですよね。ガッツリと歌舞伎の世界を描いた作品を、日本人の自分が観ないでどうするんだ? と血が騒いだのかもしれません。
さらに、大河で主役を演じる人気と実力を兼ね備えた俳優である吉沢亮さんと横浜流星さんが、歌舞伎役者の役で実際に女形を演じている、これも大きかったと思います。だって見たいじゃないですか、吉沢亮さんと横浜流星さんの藤娘。他では絶対見られないんですから。これがもし本当の歌舞伎役者の方が演じられていたら、むしろ私は興味を失っていたんじゃないかと思っています。
3時間なんて長い上映時間、途中でトイレに行きたくならずにいられるのか? と不安になり、上映前に何度もトイレに行き、飲み物はホットココアのSサイズをチョイスして、いざ上映ホールへ。万が一中座しなきゃいけなくなった時のために、すぐ出られる通路側の席を確保。お隣の席の年配のご婦人2人連れが久しぶりに映画館に来たと話しているのが聞こえました。
血と芸と
原作を全く知らない状態で『国宝』を観に行った私は、読んだレビューの中に『さらば、我が愛 覇王別姫』を引き合いに出されている方もいたので、けっこうドロドロした愛憎ドラマな作品なのかなーと予想していたんです。吉沢亮さん演じる喜久雄と横浜流星さん演じる俊介が、友情とも愛情とも言えない感情を互いに抱き合い、時にはそれが憎しみにすら形を変えてもなお離れられない、みたいな。そうでなければ、『アマデウス』のように、人間国宝にまで上りつめる喜久雄の圧倒的な才能を前に、俊介が嫉妬と憧憬の混じり合う感情を抱く、みたいな。でも実際には、喜久雄と俊介の関係は全く予想とは違うものでした。
長崎のヤクザの父を抗争によって失った喜久雄。美しい顔と才能を見込んだ上方歌舞伎の看板役者である花井半二郎に拾われ、彼は単身歌舞伎界に足を踏み入れます。しかし半二郎には一人息子の俊介が。友としてライバルとして、共に厳しい稽古を重ねて芸を磨いていく喜久雄と俊介。
少年期から喜久雄と俊介の様子が描かれていきますが、2人が本当に仲良さそうなんですよね。自分という跡取り息子がいるというのに、才能があるなんて言って父親がどこからか連れてきた喜久雄に対して、俊介は邪魔者だという感覚にならないんだろうかと、最初はちょっと不思議に感じました。だってこの時点から2人の間に不穏さが漂ったりする方が、ドラマチックではありますよね。でも、ずっとそうはならないんですよ。俊介が喜久雄と普通に仲良くできるのは、2つの理由があると思っています。
1つ目は、歌舞伎界は非常に狭い世界だということ。
プロになれるのはほんの一握りの人だとしても、サッカーのようなスポーツなどは部活や地域のチームがあって競技人口がとても大きいですよね。しかし伝統芸能の世界を目指す人自体ががるかに少ないだろうと思われます。それは歌舞伎役者であっても同じでしょう。喜久雄は俊介にとって、歌舞伎役者を共に目指す貴重な仲間なんですよね。同じ道を目指す喜久雄がそばにいることで、生まれながらに名門の名を背負う歌舞伎役者になることを定められていた俊介は、孤独を感じずに済んだろうと思うんです。
しかも喜久雄は自分と同じ年齢で、同じ屋根の下で暮らし、共に花井半二郎から鍛えられている仲。厳しい稽古を一緒に耐えてきた喜久雄と俊介だからこそ、他の誰よりも深く理解し合えるわけです。他の人には言えない悩みや愚痴なんかも、2人でなら共有できたろうと思います。だからこそ喜久雄と俊介は、兄弟のような、同志のような、そんな分かれることのできない存在になっていったのです。
そして2つ目は、喜久雄は部屋子で俊介は御曹司ということ。
歌舞伎界の世界には、部屋子や弟子の制度があります。部屋子は歌舞伎界に血縁が無い子にとって歌舞伎役者になれるエリートコース。喜久雄は半二郎に才能を見出されたおかげで、歌舞伎役者への道を進むことができるようになりました。この世界でしか生きられないのだと覚悟を決め、喜久雄は必死に稽古に励んでいきます。
しかし歌舞伎の世界は血筋が重視され、名跡を襲名し継ぐことができるのは実子や孫に限られている状況にあります。喜久雄には俊介という跡取り息子がいる以上、どんなに頑張っても後継者にはなれません。一方の俊介は半二郎の息子として生まれ、将来名跡を継ぐことを定められた存在。そのことを喜久雄も俊介も理解しています。喜久雄は俊介の立場を奪おうとは考えもしませんし、俊介も喜久雄が自分の立場を脅かすことはないと分かっています。喜久雄と俊介が目指す頂点は、この時それぞれ違っていたんですよね。
俊介は半二郎を襲名して後継者となり、喜久雄は立派な歌舞伎役者になって、舞台で並びたとう。そんな意識でずっと芸を磨いてきただろう2人に訪れた大きな転機。それは半二郎が自分の代役に喜久雄を選んだことでした。それは与えられたもの全てを受け取れる側の人間だった俊介が、喜久雄に初めて奪われた瞬間でもあります。
どうして実子である自分ではなく部屋子の喜久雄を選ぶのか。大きなショックを受けたはずですが、俊介は父に詰め寄ったり取り乱したりはしません。それどころか、プレッシャーに押しつぶされそうになっている喜久雄に、「芸があるやないか」と励ましの言葉をかけ、まるで自分の血を分け与えるかのように紅を引いてあげます。ここで荒れるなんてまるで負けを認めているようで、俊介のプライドが許さなかったのかもしれません。それに、口には出して言っていませんが、今はこの代役を喜久雄に譲っても自分が半二郎の名を継ぐ存在であることに変わりはないという血筋を拠り所とする自信が俊介の中にはあったと思います。その血筋に恥じないだけの力量もあると自負していたはず。しかし、「芸がある」と励ましてあげた喜久雄の舞台を見て、半二郎が代役に自分を選ばなかった理由を俊介は悟るんです。
俺は 逃げるんちゃう
絶望に堕ちてしまわないようにと自分に言い聞かせているような、絞り出す俊介の声。
この舞台を機に、自分の芸の未熟さを悟った俊介は姿を消し、喜久雄が三代目花井半二郎を継ぐことになります。
悪魔の褒美
血筋が重視される歌舞伎界で、実子がいるというのに部屋子が名前を継ぐなんて、あり得ないこと。喜久雄の花井半二郎の襲名は芸が血を超えた証だと思いたくなりますが、ちょっと違うんですよ。
半二郎は白虎を、喜久雄は三代目半二郎を同時に襲名しますが、これは俊介のためでもあったのではないでしょうか。俊介はきっとひと回り大きくなって戻ってきてくれる、そう信じて俊介が継げるように白虎の名前を自分のものとしたのだと思うんですよ。半二郎は名跡を途切れさせないために喜久雄に三代目を継がせましたが、それは保険のようなものでしかなく、襲名披露の舞台で倒れてしまった白虎が俊介の名を呼んでいたことからも、喜久雄は本当に芸を認められて襲名したわけではないということが感じられます。
半二郎を襲名したものの、後ろ盾となる白虎を亡くした喜久雄。彼は俊介から半二郎の名前を「かっぱらった」と思われ、冷遇されてしまいます。なぜなら歌舞伎界の中では彼は「よそ者」だから。一方、姿を消していた間にドサ回りをして鍛えられ、役者として成長をしてきた俊介は、見事な返り咲きを果たします。歌舞伎界に復帰してからは、テレビに呼ばれたり人間国宝である万菊に取り立てられて一緒に舞台をさせてもらうなど順風満帆。歌舞伎世界での「血」の力をまざまざと見せつけられる展開です。
そんな俊介と入れ替わるように落ちぶれていく喜久雄。台詞もないような端役に押しやられた彼は、役欲しさに大御所の娘に手を出し、歌舞伎界を追い出されてしまいます。血を持たない喜久雄は血を凌駕するほどの芸を手に入れなければなりません。それがどれほど困難なことか。切羽詰まって卑怯な手段に出てしまった喜久雄に同情もします。以前、俊介に「芸があるやないか」と喜久雄は励ましてもらいましたが、逆を言えば喜久雄には「芸以外無い」んですから。
追放された喜久雄は地方のドサ回りで日銭を稼ぐように。その様子は「舞台に立つ」というより「しがみついている」という表現の方がしっくりきます。落ちぶれても、絶望しても、それでも歌舞伎を手放せない喜久雄。屋上で喜久雄が1人踊る場面は、見ていて喜久雄が正気ではいられなくなったのではないかとゾッとするほどでした。
どん底まで堕ち切った喜久雄を、歌舞伎界に引き戻したのは万菊でした。追放されてもなお歌舞伎を捨てなかった喜久雄を、万菊は役者として認めたのかもしれません。そしてきっと「いつか呼び戻す」と言っていた俊介も、喜久雄の復帰に尽力していたはず。喜久雄は芸を極めた万菊と名門の後を継いで当主となった俊介の後ろ盾を得たことで、歌舞伎界に復帰することができたんです。
しかしここでポイントになるのが、喜久雄が結んでいた悪魔との契約です。喜久雄が若い時に関係を持った芸者との娘と一緒にいる時に、投げ銭もせずにふらっとお参りする場面があります。そこで喜久雄は娘に「日本一の歌舞伎役者にしてくれ。その代わり他の何もいらないと悪魔と取引をした」と言ってるんです。喜久雄がどこまで本気でそう願っていたか分かりませんし、子ども相手に冗談のつもりだったかもしれません。しかし悪魔との契約は、着々と実行されていきます。
喜久雄はまず、部屋子でありながら花井半二郎を襲名するという幸運と引き換えに、家族を失うことになりました。襲名披露で幼い自分の娘が何度も呼びかけているのに、喜久雄は一切応えようとしません。娘をも切り捨て歌舞伎役者として成り上がろうとする覚悟と冷酷さが同時に感じられます。しかし彼は父親にも等しい存在である白虎を喪ってしまうのです。
そしてまた、歌舞伎界に復帰するその大きな幸運と引き換えに、俊介が病で命を落としてしまうことになります。子供の頃から共に稽古に励み、血と芸の重みに押し潰されて一度は歌舞伎界から離れても、歌舞伎を手放さずに舞台に戻ってきた2人。半二郎と半弥という、2人合わせて一つとなる彼らの名前が示すように、もはや彼らの関係は同志を超え、誰よりも深く通じ合うことのできる半身のような存在となっていました。そんな俊介を喪った喜久雄に残されたのは、ただ歌舞伎のみなんですよね。命を削ってまで舞台に立ち続けた俊介のように、喜久雄は命をかけて歌舞伎に向き合う覚悟をしたのではないでしょうか。
その後、日本一の歌舞伎役者になるために全てを捨てて芸を極め、人間国宝となった喜久雄。吉沢亮さんの老けメイクがガッツリとはされていないため、あまり老けて見えないなーと思ったんですよ。歌舞伎界の重鎮となったのなら、威厳というか凄みというか、そういうものがもっと感じられてもいいんじゃないか? と。
でも、その後に鷺娘を舞う喜久雄の姿を見て、ちょっと考えが変わりました。「鷺娘」という演目は、人に恋をしてしまった鷺の精が人間の娘に姿を変えて舞うというもの。道ならぬ恋のために堕ちた地獄の苦しみにもがき、最後には力尽きてしまいます。鷺の精として舞うこの時すでに、喜久雄は人の世から離れて美しい別の何者かになってしまっていたのではないでしょうか。
降りしきる雪の中、美しく舞う鷺の精。この鷺娘の舞は、喜久雄の人の姿として最後の舞だったのかもしれません。悪魔との契約が全て果たされたということなのでしょう。
でも、ちょっとだけ思ってしまうんです。喜久雄には、何も犠牲のすることなく、愛する人も、大切な家族も、人間国宝の名誉も、芸を極めたものだけが見られる景色も、全部手に入れて欲しかったなと。それが叶わないからこそ、喜久雄の人生を描いたこの作品は、儚く美しいのだろうと思います。
役者魂尊敬します
『国宝』は歌舞伎役者の物語で、舞台での場面も多くあります。そのため、ちゃんと女形らしく演じられるよう、撮影の1年半も前から稽古を重ねていたという話を聞きます。
吉沢亮さんも横浜流星さんも、それぞれ大河で主役をされているということで、和服には抵抗は無かったかとは思います。しかし歌舞伎の衣装となると話は別。しかも女形として、絶対に普段はしない姿勢を取り、普段はしない動きをしなければなりません。さらには才能溢れる歌舞伎役者という役のため、そう思わせる説得力を持てなければなりませんし、演目を演じながらでもそれは喜久雄と俊介が演じているのだということが伝わらなければならない、こんな無理難題に、吉沢亮さんと横浜流星さんは挑んだんですよ。
「歌舞伎の場面、見る人が見れば未熟なのがわかっちゃうんですよ」とか「歌舞伎なのに歌舞伎役者をなぜ使わなかったんだ」みたいな辛口なレビューも見ました。そりゃ本職の方には決して敵うわけはありませんし、確かに付け焼き刃ですよ。でも私たちは『国宝』という「任侠の息子だった少年が歌舞伎役者として人間国宝になるまでの人生を描いた映画」を観に行っているのであって、決して歌舞伎の演目そのものを観に行っているわけではないのですから、そこを厳しく指摘するのは違うと思うんです。
あの映画の大きなスクリーンに映し出される歌舞伎の場面に多くの方が目を奪われているのは、吉沢亮さんと横浜流星さんが歌舞伎にリスペクトを持って真摯に向き合い、努力に努力を重ねて舞台に立った姿が、喜久雄と俊介に完璧に重なっていたからなんですよ。そこに行き着くまでの労力は想像もできません。それが役者というものだと彼らは言うかもしれませんが、それでもやっぱり作品にかける情熱の強さに、私は圧倒されました。
あまり『国宝』を観ることに乗り気ではなかった相方でしたが、最後まで見届けて「観に行こうよと声掛けてくれて、ありがとう」とお礼を言ってくれました。