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『機動戦士ガンダム 水星の魔女』最終話まで観て感じたことを語りたい ③

2023年7月2日に最終回を迎えた『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(以下『水星の魔女』)。

私のようにガンダムの作品の作品にあまり触れてきたことがない人間でも感じることはたくさんありました。今回はこの作品の表現やガンダムシリーズであるという視点から語っていきたいと思います。

 

ネタバレがありますので、未視聴の方はご注意してお読みください。

 

『水星の魔女』の物語の構成の視点から

⑤物語の層を成すもの

『水星の魔女』が放映開始されてすぐに、この作品はシェークスピアの『テンペスト』を下敷きにしている」という指摘をされている方がいらっしゃいました。

シェークスピアの作品といえば『ハムレット』『リア王』『ロミオとジュリエット』などのような悲劇の戯曲が有名かなと思います。戯曲を本では読んではいなくても度々映画や舞台で演じられていますので、それらを観たという方も多いんじゃないかと思います。

しかしシェークスピアが書いたのはそれらのような悲劇ばかりではありません。『テンペスト』というタイトルを日本語に訳すと「嵐」という意味でなんだかとても不穏な感じがするのですがこの作品は悲劇ではなく、魔法や妖精が出てくるファンタジー色の濃い物語になっています。この作品に出てくる主人公の前ミラノ大公プロスペロー、プロスペローの手下の妖精エアリアル、島に棲む怪物キャリバーンは、『水星の魔女』ではスレッタの母親プロスペラ、スレッタが水星にいる時から乗っているMSエアリアル、物語終盤でスレッタが乗り込むことになるMSキャリバーンとしてそれぞれ登場しています。

そして『テンペスト』ではミラノ大公の座を追われて娘のミランダと共に絶海の孤島で魔法を学んで過ごしていたプロスペローが、復讐のため妖精エアリアルに命じて嵐を起こさせナポリ王や自身を追放した弟たちの乗る船を難破させたり、ナポリ王の息子とプロスペローの娘のミランダが恋に落ちたり、怪物キャリバーンがプロスペローを殺そうとしたりしますが、『水星の魔女』の物語の中でそれらの要素がうまく取り込まれているのを感じます。『テンペスト』がどんな物語かを知っている人はより一層、この先どうなっていくのか展開を予想したりするのが楽しかったのではないでしょうか。

このように『水星の魔女』は『テンペスト』を下敷きに物語を進めていくことによって、2つの物語が重なり合い、奥行きが生まれています。このほかにも『水星の魔女』の物語は「対照」「反復」「オマージュ」によって層を重ねて奥行きを生み出しているんです。

対照

『水星の魔女』では、多くのキャラクターたちによる複雑な人間ドラマが繰り広げられていきます。その中で対照的なものとして描かれているキャラクターたちがいます。

たとえば、スレッタとプロスペラの母子とミオリネやグエルの父子の関係。プロスペラはスレッタが不安になった時などにはとても優しい口調で背中を押してくれ、スレッタはそんなプロスペラに全幅の信頼を寄せています。「お母さんが言うのなら」人も殺すと言い切ることができるほどに、スレッタはプロスペラの支配下にあるといえます。一方ミオリネやグエルの父親は強権的。言動に出すか堪えるかの差はありますが、ミオリネもグエルもそんな父の手駒にされていることに反発を抱いています。

特にグエルはスレッタとは鏡のような関係です。グエルはホルダーから陥落し花嫁を失い、学園を追われて父親をその手で殺してしまいます。一方でスレッタは学園に来てすぐにホルダーの称号を獲得、花嫁を得て地球寮の皆に受け入れられていき、母親とは最後まで共にいます。グエルが異母弟のラウダがおり、スレッタには姉的な存在であるエリクトがいるというのも対照的ですよね。

他にも対照的な存在としては、ミオリネとシャディクや強化人士5号とノレアなどもいます。ミオリネは不器用ながらもきちんとスレッタに自分の気持ちを言葉にして伝えていきますし、スペーシアンとアーシアンとの間に対話の場を設けて分かり合おうと努めていきますが、シャディクは自分の想いをミオリネに伝える勇気を持てないままですし、対話を初めから排除して裏工作やテロなどの武力行為によってスペーシアンとアーシアンの力を均衡させることを目指していきます。

強化人士5号はペイル社にただ利用されて命を失うことに抗い続けて最後まで生き延びますが、ノレアは命を削られていくことに恐怖しながらもガンダム・ルブリス・ソーンに搭乗して命を落としてしまいます。

このように対照的な存在が置かれていることで、私たちはそれぞれのキャラクターがたどる相反する人生を同時進行で見届けることになるんですよね。

反復

この『水星の魔女』の物語の中では、何度も形を変えながら同じ事柄が繰り返される展開がいくつも見られます。

物語の最初で地球へ脱出しようとするミオリネをスレッタが助けたシーンは、物語の終盤で宇宙に漂うスレッタを助けようとミオリネが飛び出していくシーンとして立場を逆転させて反復しています。

またスレッタは何度も相手を変えながら決闘を行うことになりますが、中でもグエルとは決闘での勝ち負けを繰り返すことになります。そしてその勝敗は、物語の中で2人の置かれる状況と深くリンクします。

オマージュ

スレッタとグエルの最後の決闘シーンは、それまでのようにMSに乗っての決闘ではなく、一対一の生身でのフェンシング対決となっていました。ミオリネの花婿をスレッタに譲るための口実としての決闘であり、スレッタとグエルが前に進むためのひとつの通過儀礼的なものでもあるわけですが、このシーン、スレッタの機体は白でグエルの機体が赤ということもあり、ファーストガンダムのアムロとシャアの対決シーンを思い起こさせるものなっていました。

このシーンだけでなく『水星の魔女』には過去のシリーズ作のオマージュも散りばめられています。

たとえば『水星の魔女』ではトマトを食べるシーンも繰り返し出てきていますね。トマト自体がミスレッタとミオリネの繋がり、ミオリネに伝わっていながらも実らないシャディクの想い、ミオリネの母親の愛情などというように様々な意味を持つものとされていますが、ファーストガンダムでもアムロが部屋の中でひとりきりでトマトを食べるシーンがあります。ミオリネが花や他の野菜ではなくトマトを栽培している設定なのは「あえて」のものだと思われますよね。アムロは子どもがいたずらで盗んできたトマトを食べて現実の厳しさを噛み締め、スレッタはミオリネが育てたトマトを自分で食べるだけでなく困難を乗り越えるために襲撃を受け傷ついた学園の生徒たちにも配ることになり、対照的な意味合いを持たされています。

他にもスレッタの母親のプロスペラがヘッドギアをつけているのはガンダムシリーズの作品で搭乗してきた仮面を付け素顔を隠しているキャラクターに倣ったものであることは間違いないですし、妙にキャラクターデザインに安彦良和さん風味を感じたグエルの弟のラウダは、彼と同じく髪をいじる癖があるガルマを連想させます。

 

⑥ガンダムという重圧

機動戦士ガンダムは第1作の1979年に放映されたファーストガンダムに始まり、今に至るまで続いているシリーズです。もうここまで続いてシリーズ作品が生まれていると、ひとつの「伝統」ですよね。

令和になって初の新しいガンダムだということで、『水星の魔女』はどんな作品になるのだろうかと放映前からみなさん注目していましたし、話題になっていました。

放映が始まるとTwitterではリアルタイム実況しながら視聴している方もたくさんいらっしゃいましたし、#水星の魔女や#G_Witchのハッシュタグ、キャラクター名などがトレンド入り、考察もかなり盛り上がっていたなという実感があります。

ですが、ガンダムであるということで物語も絵も当然クオリティが高いものであるはずだと期待して視聴しますし、ガンダムであるが故にヒットすることが大前提であり期待はずれになるなんてことは許されません。ガンダムだからヒットするんじゃなくて、ガンダムだからヒットさせなきゃいけないんですよ。制作側の方達にはものすごいプレッシャーがかかっていただろうと思います。

そんな失敗が許されないというプレッシャーを背負いながら、主人公を女性のスレッタとし同性のミオリネをパートナーに据えたり、スレッタたちは軍に所属する軍人ではなくあくまでも学生であり敵を倒すための殺し合いの戦闘は行わなかったりと、今の時代に寄り添う新しい感覚を取り込んで物語を紡ごうとしていましたよね。

長い歴史と実績のあるガンダムという「伝統」の枷の中で、制作側の意図がどれだけ実現させることができたのかは分かりません。それでも必ずヒットさせるべき作品の制作でも貪欲にチャレンジが行われているのだという事実に、制作側のより良い作品にしようという気概を感じました。

 

次回は『水星の魔女』で描かれた恋について語っていきたいと思います。