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『さらざんまい』について語りたい⑧音楽

幾原邦彦監督のオリジナルアニメ『さらざんまい』の物語について語ってきましたが、今回はその音楽について語りたいと思います。

さらざんまい 音楽集「皿ウンドトラック」

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  • 発売日: 2019/06/05
  • メディア: MP3 ダウンロード
さらざんまいのうた/カワウソイヤァ

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サントラ買いました

先日TwitterのTLに「サントラを買って欲しい」という作曲家と思われるの方のツイートが流れてきたのを見かけました。

たしかにDVDやブルーレイ・ディスクにおまけでサントラのCDが付いてきたらうれしいけれど、サントラを買う方というのは少ないのかもしれません。私も一時期、映画のサウトラにハマっていた時期がありました。でももう、最後に買ったのは何年前か、覚えていないくらいに。OPEDの曲は買うことはっても、サントラを買おうとまでは食指が動くことはありませんでした。

でも私にとって『さらざんまい』は違っていたのです。OPEDの曲も、キャラクターソングである「さらざんまいのうた」「カワウソイヤァ」も、そしてサントラのアルバムも全て購入。そこまでするのは久々で、自分でもちょっとした驚きでした。

ここまで『さらざんまい』の音楽に魅せられてしまったのはなぜなのか、ちょっと考えてみたいと思います。

 

音楽とだって「さらざんまい」

『さらざんまい』は11話しかない作品です。通常の1クールの作品では、劇中に流れる劇伴と呼ばれる曲までもハッキリと作品と結びついて印象に残ることは、そこまで多くはないかなと思います。

でも『さらざんまい』は音楽無しには作品が成り立たないほどに、物語と音楽が密接な関係にあるのです。

一稀たちがカッパの姿で歌う「さらざんまいのうた」も、レオとマブが歌い踊る「カワウソイヤァ」も、それぞれ物語の途中で説明もなく唐突に始まります。カッパ姿の一稀たちは無表情だし、レオとマブはいちいち不思議な決めポーズをとります。

ですが、幾原邦彦監督によって書かれたその歌詞は、それぞれの歌を歌うキャラクターたちに意味ありげに寄り添っており、初めて見た時には「なぜ今歌い出す⁉︎」と混乱に陥っていたはずが、2話3話と進むにつれてキャラクターたちとそれぞれの歌が強くリンクしていきます。「さらざんまいのうた」「カワウソイヤァ」が聴けない回を視聴していると、ちょっと物足りない気持ちになってしまうようにさえなるほどです。

彼らの歌い踊るシーンは、変身物などの作品のように毎回繰り返し使われるバンクと呼ばれるものにあたります。「繰り返し」などと言うと、ちょっと手抜きのようなネガティヴなものと感じる方もいるかと思います。しかし、その繰り返しこそが、物語にとってとても大事なものなのです。

『さらざんまい』の物語は、全11回という回数の中で猛スピードで進んでいきます。さらにTwitterでは放映を観た方たちが考察を繰り広げるほどの、これでもかという情報量が作品に込められており、これは何かの伏線か、これはなにかを象徴しているのかなど、深読みしたくなる気になる点が映像のあちこちに存在しています。

それでも観ている人たちが置いてけぼりをくってしまうことは無いのは、意図した「繰り返し」の演出のおかげなのです。

「カワウソイヤァ」「さらざんまいのうた」のイントロを耳にした瞬間、いよいよ待っていた展開が始まるぞと気持ちが高揚させられます。まるで歌舞伎の型のような、お約束の美学がそこにはあるのです。

それは歌だけではありません。一稀たち3人がケッピの引く人力車に乗ってカッパゾンビとの戦いに向かうシーンや、サラちゃんの番組のシーン、カッパゾンビが誕生するシーン。毎話同じようなシーンが現れ、同じ劇伴が流れます。

一稀たちがカッパの姿となる場面では三味線の曲が流れ、トランペットから始まる勇壮なメロディーでいつもカッパゾンビとの戦いに向かいます。そしてカッパゾンビの欲望に呆れ、必ず漏れてしまう一稀たちの秘密の内容と普段の彼らとのギャップに驚くという展開が2〜4話で繰り返されます。しかし、5話ではいつものメロディーで戦いに向かったにも関わらず、「さらざんまいのうた」のハーモニーはグダグダで、彼らはカッパゾンビを倒すことに失敗してしまいます。そこに一稀のショックの大きさがどれほどのものだったかを感じることができます。

また、レオがカッパになって「さらざんまいのうた」を歌う10話では、美形なレオがちんまりとした可愛らしいカッパの姿になりノリノリで「さらざんまいのうた」を歌うというコミカルさ、そしてその後に待ち受けているレオとマブの別れの場面の悲劇性を、より強く感じることができます。

「いよいよ来たぞ!」となるような場面の「繰り返し」を数回経験し、それがこの作品の「型」であると認識させられたことによって、私たちはその先の予想外の展開に、より一層強烈な衝撃を受けることになります。その計算された「繰り返し」の演出を、劇伴が私たちにより強く意識させるのです。

最終話では、キャラクターと曲を深く結びつかせたことで生まれる効果を最大限の感じることができます。

10話まで視聴し、「さらざんまいのうた」は一稀たち3人の、「カワウソイヤァ」はレオとマブの、それぞれテーマソングとしてしっかりと耳に刻み付けた状態で迎える「最後のさらざんまい」。自分たちのつながりを守るために、カッパの姿になった一稀たち3人が過去の一稀にミサンガを渡そうと奮闘するシーンのバックには、もちろん「さらざんまいのうた」が流れています。しかし、カワウソの妨害により真っ暗になってしまった世界で、全く何も見えず目指すべき過去の一稀の姿を見失ってしまいます。そこへ3人を助けるために現れたのはレオとマブ。彼らの登場シーンのバックにはもちろん「カワウソイヤァ」のメロディーが流れます。「さらざんまいのうた」「カワウソイヤァ」が融合したことにより、対立する存在だった一稀たちとレオマブが、今は同じ方向を向いて一つの望みを叶えるために力を合わせているということがより一層強く伝わり、観ていて鳥肌が立つほどでした。

 

OPEDとのリンク

好きな作品のOPEDの曲をダウンロードして聴いている方は多いと思います。作品の顔となりイメージを作り上げる重要な役割を担うOPEDの曲は、素敵な曲ばかりです。繰り返し聴くのは毎話流れるOPEDも同じですね。OP曲を聴いて、これから始まる物語にワクワクし、ED曲を聴いて物語の余韻に浸ります。

『さらざんまい』のOP曲はKANA-BOONの「まっさら」。キャラクターたちが勢揃いして次々と場面が切り替わっていくカラフルな映像とマッチする、明るくて疾走感のある曲です。

ED曲はthe peggiesの「スタンドバイミー」。実写の夜の浅草の風景とアニメ画のキャラクターを組み合わせたクールな映像と女声ボーカルがとても印象です。

OPの「まっさら」を聴きながら物語の世界に没頭し、物語の余韻に浸りつつEDの「スタンドバイミー」を聴いて終わるということになるのですが、OPEDに関して『さらざんまい』ではとても奇跡的なことが起きているなと毎回感じていました。

『さらざんまい』の各話の多くは、始まりの時点よりも終わりの時点で一稀などキャラクターたちが辛い状況に立たされています。

吾妻サラの女装していることがバレたり、想いを寄せていることが漏洩したというのに肝心の本人にはそれが全く伝わっていなかったり、自分を庇って大事な人が撃たれてしまったり。

そんな場面の後に流れ出すED曲「スタンドバイミー」。「僕は強くなれるかな」と歌うその歌詞が完全に一稀たちに重なり合い、EDの映像の物憂げなキャラクターたちの表情と相まって、物語の切なさをより鮮明に印象づけていました。辛い展開の後に流れる「スタンドバイミー」は癒しでもあり追い討ちでもあり、「もうこれ以上君たちは強くなんてならなくていいよ」と曲を聴きながらキャラクターたちに語りかけたくなるほどでした。

最終話ではOPEDの2曲がさらに効果的に使われています。10話のCパートでカッパゾンビの作り出した闇に悠が飲まれてしまうという場面のシリアスさを消さないよう、OPを流さずに始まる最終話。カッパゾンビの妨害も打ち破り、一稀たちはつながりを守ることができました。しかしいくつもの犯罪を犯している悠は、少年刑務所に入ることになります。

この後、少年刑務所での悠の様子を「スタンドバイミー」の曲と共に見ることになるのですが、悠の背負ってきたものを知っているため、「僕は強くなれるかな」という歌詞が彼の心の声にさえ思えて苦しくなってしまいます。

ED曲後のCパートで、少年刑務所から出て浅草に戻ってきた悠。後ろめたさから親戚の蕎麦屋には立ち寄れず、彼は橋に向かいます。モノローグと相まってその後ろ姿は寂しげに見えるのですが、一稀と燕太が悠と合流することで一気に明るい雰囲気に戻ります。3年経っても、一稀、悠、燕太の3人のつながりは切れることなどなく、しっかりと結びついています。それを確かめ合うように笑顔でサッカーボールをパスし合う3人。

そしてここでOP曲の「まっさら」が流れるのです。明るい曲調とキャラクターたちが全員出てくるポップで鮮やかな映像。気持ちをぐいっと持ち上げてくれ、作品のオープニングを飾るのにふさわしいと思っていたこの曲が、これから先もずっと続いていく一稀たちの賑やかな未来を示しているように思え、胸にこみ上げるものがありました。

まさしく『さらざんまい』という作品は、OPEDもキャラクターソングも劇中曲もみごとに物語にリンクさせているのだと言えます。

 

最後にこれだけ語らせて

皆さんは『さらざんまい』のキャラクターの中でそれぞれ推しがいるかと思います。私は久慈兄弟がとても好きで、グッズなど出ても誓さんがいないとしょんぼりしています。

ということで、『さらざんまい』の音楽について語る最後に、9話のCパートについて語りたいと思います。

誓のイメージの曲のタイトルは「暴力の夜」。ザラザラとしたノイズ音とワウワウミュートを付けたトランペットや怪しげギターなど特徴的な音色で奏でられるダークなものです。無表情なリズムは脈拍のようにも足音のようにも感じられ、誓のいる世界が安らぎの無い緊迫したものだということが伝わってきます。

しかし9話のED後のCパートでは、誓が撃たれているにも関わらず、流れるのはピアノの優しい音色でした。それは「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲をピアノ演奏したもので、劇伴ではなく元はオペラの曲です。

このオペラについてざっくり説明します。兵役を終えて帰ってきた男は、自分の恋人の女性が既に別の男と結婚していることを知ります。人妻となった元恋人を忘れることができず、彼女の夫の目を盗んでは逢瀬を重ねる仲になってしまう男。二人の関係を夫に知られてしまった男は、彼女を巡り夫と決闘を行います。そしてその決闘は、男の死で幕を閉じるというものです。

いつかは知られてしまうと恐れながらも、男は元恋人の女性と不倫をしてしまい、その報いとして死を受け入れる覚悟で彼女の夫との決闘に臨んだのでしょう。

誓も悠も、罪を犯してのうのうと生きていけるとは思ってはいなかったろうと思います。いつか終わりが来てしまうと心のどこかで恐れながら、それでも二人で浅草を逃げようとしたのです。

両親の蕎麦屋を守るためとはいえ、誓がヤクザの金を盗んだことから、まだ幼かった弟の悠は人を撃ち大きな罪を背負ってしまいました。そのことに対して誓が全く何も感じていなかったとは思えません。追手の弾から悠を庇って撃たれた誓は、「お前のせいで予定が狂った」などと言いながら、人を撃ち殺した悠の罪を自分の死によって引き受けて消えていけるということに、安堵さえ感じていたのではないでしょうか。悪い奴だけ生き残る世界。でも悪い奴は、絶対に罰せられなければならないのです。決闘に敗れて死んでしまうオペラの兵役帰りの男と、久慈誓が重なり合います。

優しいピアノの音色で奏でられる「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲美しいメロディーに、誓の本当の姿を見せてもらえたような気持ちになります。誓が撃たれて息を引き取るシーンが、劇伴ではなくあえてこの有名な間奏曲を使って彩られたことには、彼の死を印象的なものにするだけではない、とても大きな意味が込められているのです。

 

前回は『さらざんまい』最終話について語っています。興味を持っていただいた方は、こちらからどうぞ。

isanamaru.hatenablog.com