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BL『君は夏のなか』について語りたい

古矢渚先生の商業BL『君は夏のなか』という作品をご存知でしょうか。高校生の夏の日を爽やかに描いた作品です。今回はこの作品について語りたいと思います。

君は夏のなか (IDコミックス gateauコミックス)

君は夏のなか (IDコミックス gateauコミックス)

  • 作者:古矢渚
  • 出版社/メーカー: 一迅社
  • 発売日: 2017/10/05
  • メディア: コミック
 

ネタバレが含まれるので、ネタバレダメという方は注意してお読みください。

 

BL作品と言うと、どんなイメージを持っていますか?

タイトルや表紙の絵からして既にあからさまで、ちょっと手に取りにくいものも多くありますよね。私はできれば紙媒体で読みたい紙派なので本屋で買うことが多いのですが、BLに慣れてきて抵抗が無くなってきたとはいえども、レジに持っていくのが恥ずかしくて断念し、結局電子書籍で購入ということも多々あります。

男性同士の恋愛を描いているという共通点でジャンル分けされているBLですが、大胆な性描写をメインにしたものばかりではなく、様々な作風の作品があるのは、BLも一般的なマンガや小説と全く同じです。

古矢渚先生の作風は、とても穏やか。波瀾万丈のドラマでは決してありません。しかし、どの作品も主人公たちの心の揺らぎがとても丁寧に繊細に描かれていて、読んだ後にとても優しい気持ちで満たされているのを感じられるんです。

今回語る『君は夏のなか』は男子高校生2人のひと夏の物語。心が汚れちまったなぁと思った時に読み返したくなるんです。

全くBLに縁のない方でも、瑞々しいこの物語なら抵抗なく読めるんじゃないかな、読んでもらえたらいいな、好きになってくれるんじゃないかな、と思える作品です。

 

何も望まないから

高校生の戸田渉は同じ高校に通う佐伯千晴に好きな映画のことで声をかけられたことをきっかけに意気投合。互いに気になる映画を月に2、3回一緒に観に行くようになっていました。

千晴は成績優秀で背も高く、顔立ちも整ったイケメン。当然女子たちにもモテており、学年でも目立った存在です。中学時代には何人もの女の子と付き合っていたという話も。しかし高校に入ってからは女子からの告白を断り続け、自分とばかりつるんでいるのを不思議に思った渉は、何の気無しに千晴に好きな人はいるのかと尋ねます。

 

俺の好きなのは
目に前にいる渉だよ

 

思いもしない答えに動揺してしまう渉。しかし千晴は、渉が自分の気持ちを知ってくれればそれでいいと言います。何も望まないと。ただそのかわりに、一緒に好きな映画の「聖地巡礼」に付き合って欲しいと渉を誘う千晴。

そうして迎えた夏休み。渉は『白日の海』という映画の聖地を千晴と共に巡ることになります。映画のロケ地に出向き、映画に出てきた風景を写真に撮り、映画に出てきたお店の料理を食べ、周辺を散策する。そんな小さな旅行。バイトをしている渉のスケジュールに合わせて、2人は少しずつ「聖地巡礼」を進めていきます。

「聖地巡礼」って楽しいですよね。私も夢中になって観ていたアニメ作品の聖地巡礼をしたことがあります。作品に出てきた場所に実際足を運んで登場人物と同じ目線でその風景を見ることで、作品の中に自分も入り込んだような楽しさがありました。「聖地巡礼」をしたことにより作品がより深く自分の中に染み込んでいったなという感覚があり、忘れられない経験になっています。

自分が好きな作品にゆかりのある場所を、好きな人と一緒に巡ってその思いを共有することができたら、それはとても思い出深いものになることは間違いありませんよね。しかし千晴が渉とこの夏休みの間にどうしても「聖地巡礼」をしておきたい理由は、それだけではなかったのです。

 

言葉の呪縛

同性の千晴に好きだと言われても、彼を茶化したりギクシャクして距離を置いたりすることなく、千晴が望むように今まで通りの態度で接する渉。千晴が渉に好意を告げたこと以外、距離を縮めることも遠ざかることもしないままの2人。

しかし、言葉というものは人を縛るもの。「好きだ」と千晴に気持ちを告げられた渉。その言葉を聞いた瞬間、彼にとって千晴はただ仲の良い友達から、自分に対して好意を寄せてくれている相手に変わってしまったんです。

自分に好きだと言っておいて、知らない女子と楽しそうに過ごしていたり、渉とクラスの女の子がお似合いだと言ったり、さらりと元カノとの話を口にしたりする千晴。渉は今まで感じることのなかったモヤモヤとした想いを抱くようになります。

千晴が自分の告白に対する答えを出すことを渉に求めなかった、というのがポイントなんですよね。「自分も好き」なのか「友達としか見られない」のか、渉が千晴に対する気持ちにもしも答えを出していたら、その時点で2人の関係は大きく変わっていたはずです。付き合うことになったかもしれませんし、疎遠になってしまったかもしれません。しかし答えを出すことを求められなかったことによって、渉は千晴に対して自分はどう思っているのか、今までと全く変わらない距離感のままで常に意識し続けることになったのです。

映画のロケ地を全て訪れ、「聖地巡礼」が終わってしまったら、千晴は渉への気持ちを消し去り、いずれ自分ではない誰かと付き合うことになるのかもしれない。渉はふとそんなことを考え、胸のざわつきを覚えます。

それまでは千晴に好きだと言われて照れていた渉。でもこの先、千晴が別の誰かを好きになって自分から離れていってしまうかもしれないのだと初めて想像し、渉は寂しさだけでは言い表せない切ない感情が自分の中に確実にあることに気づきます。もう千晴とは、元のように仲の良い友達の2人にはもう戻れないことを、渉は知ってしまったのです。

夏休みも終わりに近づき、残る聖地は映画のラストの場面のみ。一番行きたかった聖地を前に、「楽しみ」と口にしていた千晴。しかし、出発を目前に訪れてしまった台風。彼らの聖地巡礼は夏休みの間に終えることはできませんでした。

二学期になったらまたこの続きを、と思っていたのは渉だけ。新学期を迎えて初めて、渉は千晴が黙って転校していったことを知らされることになるのです。

 

思い出になんてできない

千晴の転校は夏休み前に既に決まっていたことでした。渉に想いを告げたのも、なのに「今まで通り」であることを望んだのも、そして2人で好きな映画の聖地を巡っていたのも、すべては千晴が渉の前から去ることが決まっていたからだったのです。

仲の良いクラスメイトたちが驚くほどの剣幕で怒る渉。当然ですよね。渉は夏の間ずっと、千晴との「これからのこと」を考えていたんです。なのに転校するなんて大事なことを口にしないまま、千晴は騙し討ちのように渉の前から去ってしまったんですから。

離れてしまえば、渉とは会えなくなってしまう。自分の渉への想いも、もう叶うことは無い。渉はこれからたくさんの人と出会い、自分との記憶は薄れていってしまう。どうせなら跡形も無く渉の中から消えてしまいたい。千晴はそんなことを願っていたのかもしれません。でも最初から夏休みが終わったら渉と二度と会わないつもりで自分の想いを告げていたなんて、これはちょっと千晴がズルすぎです。だって、こんな別れ方、忘れられるわけないですよね。忘れてほしくないと、いつまでも渉の記憶の中に留まり続けていたい。千晴は本当はそう思っていたのだと思うんです。

そんな突然の別れから1か月。渉の元に1通の手紙が届きます。差出人は千晴。その手紙には、千晴が渉と初めて出会った時のことが書いてありました。10歳の夏の日、千晴と渉は既に出会っていたのです。

幼い頃、千晴は娘を望んでいた母親によって女の子の洋服を着せられていた千晴。千晴は母を喜ばせようとおとなしく女の子の格好をさせられていたことから、周りの大人たちは彼が本心ではそれを嫌がっていることを気づいてくれなかったのかもしれません。でも初めて来た公園で迷子になり泣いていた千晴に手を差し伸べた渉は、千晴が嫌々女の子の服を着ていることを見抜き、きっぱり言い放ったんです。

 

いやならいやって
言っていいんだぞ!

 

息子としての自分を否定されたような気持ちになっていた千晴は、渉のこの一言でどれほど救われたことでしょう。本当の自分の姿を渉だけが見つけ出してくれたと、その時千晴は感じたはずです。

千晴の中で、あの夏に出会った渉は忘れられない存在になっていました。時を経て高校生になった千晴は、自分と同じ高校に渉がいることに気づきます。友達として渉と親しくなった千晴は、初めて出会ったあの夏と変わらない渉に心惹かれていったのです。

 

最高の思い出をありがとう

 

そう結ばれていた手紙。これを読んで何もせずにいられるわけがないですよね。ひとつの可能性に賭け、渉は授業を放り出して最後に2人で訪れるはずだった海岸へと向かいます。再会を果たした2人。しかし千晴の頬を殴りつける渉。

千晴は渉のことを諦めるために、「聖地巡礼」をしながら自分の気持ちの整理をしようとしていました。しかし、諦めるどころか渉が好きだと思い知るばかりだったと言う彼に、渉は本当の気持ちを問います。初めて会ったあの夏の日と同じように、渉の言葉に背中を押され、伝えずにいた本当の気持ちを口にする千晴。

 

何も望んでないなんて嘘
本当は思い出になんかしたくない

 

千晴はずっと押さえこんでいた気持ちをすべて渉に打ち明けたかったんですよね。そしてそのことに渉も気付いていたんですよ。

この作品で私がとても重要だなと思うのは、互いの気持ちを確認しあった彼らのキスシーンよりも握り合った手が大きく描かれている、ということなんですよね。初めて出会った夏の日、迷子になってしまい不安でいっぱいだった千晴の手を握ってくれた渉の手を、今度は千晴がしっかりと握りしめているのです。それは、気持ちを押さえ込んでいた千晴が、渉を初めて自分で引き寄せた瞬間だったのだと思います。

もう友達じゃない。けれども恋人という言葉はまだ似合わない。心が寄り添い合った2人のそんな関係はとても瑞々しく、この物語を追いかけてきた私たちを優しい気持ちで満たしてくれるのです。

次回はこの作品の続編『君と夏のなか』について語りたいと思います。

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