前回は、古矢渚先生の商業BL作品『君は夏のなか』について語りました。今回はその続編『君と夏のなか』について語りたいと思います。
「君は」から「君と」とタイトルが1文字のみ変化しているのですが、この小さな違いが千晴と渉の関係性の変化をとても良く表現しています。
ネタバレが含まれるので、ネタバレダメという方は注意してお読みください。
大学生の2人
前作では高校2年生だった千晴と渉。この作品では2年経ち、彼らは大学生に。千晴は大阪、渉は東京と離ればなれになってしまっていましたが、受験の1年間を無事に乗り切り千晴が東京の大学に通うようになって、2人は再び近くにいられるようになりました。千晴は塾の講師を、渉は映画館のバイトをそれぞれしており、学業にバイトにと忙しくしています。
近くにいられるだけでやっぱ楽しいし
けどほんとはもっと会えたらいいとは思って……
千晴が告白をした思い出の階段に並んで座り、手を握り合いキスを交わす2人がとても微笑ましく感じられます。
大学生になって初めての夏休み。
また2人の夏が始まるのです。
友達以上恋人未満
渉は千晴と過ごす時間がとても居心地が良いのか、2人で一緒にいられればそれだけで十分楽しく、満足しているように見えます。
千晴からの好意をちゃんと受け止めてはいますが、接する態度も高校生の時と特に変わらず、千晴が女の子に声をかけられたりしているのを見ても平然としたまま。「少し妬かれてみたい」と千晴が言うほど淡々としていますし、渉は嫉妬するという感情についてはよく分からないし、自分とは無縁なものだとも思っている様子です。
しかし千晴は渉への想いが時折溢れ出し、抑えきれなくなってしまいます。だってもう彼らは大学生。好きな人に触れたいと思う千晴の気持ちは、とても自然なものですよね。
もっと触ってもいい?
ちゃんと尋ねて了解を得てから渉を抱きしめる千晴。彼の渉に対する優しさや誠実さが感じられますよね。けれどもそんな彼だからこそ、身構えて固くなってしまう渉に決して無理強いすることはしません。ひとり暮らしの自分の部屋に来た渉が寝落ちてしまっても、ベッドに運んであげてただ隣で眠るだけ。触れるといっても渉をそっと抱きしめるくらい。ほんとにそれだけでいいのかと、こちらが心配になってきます。
千晴と「つき合っている」という意識はあるものの、「恋人同士」というところにまでまだ意識が追いついていないように見える渉のスピードに合わせて、千晴は溢れてしまう気持ちにブレーキをかけてあげているんですよね。
お互いのバイト先や大学にフラリと訪れてみたり、バイト先の先輩よりも自分を優先してくれたことにうれしがったり、抱き寄せられてドキドキしたり。友達以上、でも恋人という言葉はまだちょっと似合わない彼らの関係は、とても初々しく爽やかです。互いに会いたいと思い合う気持ちは、他の友達に抱くものとは決して同じではないというのに、一緒にいて楽しい友達の延長のように過ごせてしまうからこそ、2人の仲はキスするだけのほぼプラトニックなままで、なかなか進展していきません。
花火大会の夜に
夏らしいことをしようと思い立った渉は、千晴に花火大会を見にいくことを提案します。浴衣姿が見たかったという千晴の言葉に照れてしまう渉。思ってることはちゃんと伝えたいと言う千晴。
ちょっとだけ触らせて…
こないだ電話した時から
ずっと会いたかったから
千晴に抱き寄せられてバランスを崩して床に倒れてしまい、ガチガチに身構える渉。千晴はそんな渉の額にキスをするだけで、あえて何事でもなかったようにサラリと振る舞います。
なかなか踏み出していけない2人。花火の夜、そんな彼らの背中を押す出来事が起こります。
花火大会に出かけた千晴と渉。千晴がかき氷を買いに行っている間に迷子の男の子を見つけた渉は、男の子の親を探してあげようと手を引いて花火大会のスタッフがいる本部のテントまで連れて行ってあげることに。無事に男の子を両親に引き渡すことができましたが、そこでようやく千晴の部屋に携帯を忘れて家を出てしまっていたことに気づく渉。
広い会場、たくさんの人。お互いに探し回っても、それぞれ動かずに待っていても、この状況で携帯電話無しには合流することなどできそうにありません。完全に詰んでしまった状態です。そんな渉に、たまたま同じ花火大会に来ていた千晴の友人の秋吉が声をかけてきます。事情を知ると、快く千晴に連絡を取ってくれる秋吉。
あー、もしもし。千晴?
こうして秋吉が居場所を伝えてくれたおかげで千晴と合流し、予定通りに花火を一緒に見ることができたというのに、どこか様子がおかしい渉。心配する千晴に、なんでもないと渉は答えますが、それでも彼の表情は曇ってしまっています。
その理由は、秋吉がかけてくれた電話。
花火大会が終わり千春の部屋に戻る途中で、渉は逡巡した後、初めて千晴を名前で呼びます。今まではずっと自分を「佐伯」と名字で呼んでいた渉が突然呼び方を変えた意味が分からず、驚いて振り返る千晴。
秋吉がお前のこと千晴って…
だって俺が呼んでないのに
他の奴が呼んでんの悔しいじゃん
もしも秋吉が女性だったら、逆に渉はここまでモヤモヤする気持ちを抱かなかったかもしれません。同じ高校にいた渉にとって、千晴が女性にモテるというのは当たり前のこと。それまで千晴が女性に声をかけられていても告白をされても、渉は平然としていられただろうと思います。
お互いの気持ちを確かめ合い、大阪と東京と離ればなれになっていた千晴と渉。その後は彼らが受験生だということもあり、お互いの学校での様子はそこまで気にならなかったのだと思います。しかし、千晴が東京に戻ってきたことで2人の物理的な距離が再び近くなり、それぞれの大学でできた友達とどれほど仲が良いのかも知ることができるようになりました。
そして、千晴が大学に入ってから仲良くなった男の友人である秋吉が、自分もしたことがない名前呼びをしているのを目の当たりにした渉。千晴にとって自分が一番近くにいるとある意味安心していたからこそ、あまり知らない人間が自分よりも親しげに下の名前で呼ぶのを千晴が許しているという小さなことが、ショックだったのです。
あまりにも小さなことだとわかっていながらそれでも苛立ちを感じてしまうことに、戸惑う渉。初めて見る表情から渉の心の揺れに気づき、思わず千晴は彼を抱きしめます。
それって妬いてくれたんだよね?
渉は恋愛に対して関心が無いわけではないのだと思います。でも、千晴とはもともと仲の良い友達だったこともあり、自分たちと恋愛というものをうまく結びつけることができなかったのでしょう。千晴に言葉にされて初めて、秋吉に対して嫉妬していたのだと気づく渉。自分が千晴に対して抱いている感情は、もう「友情」ではなく「愛情」なのだと渉がはっきりと自覚をした瞬間です。
ゆっくりと渉にくちづける千晴。初めての「唇を重ねるだけではないキス」に動揺する渉。もうこのシーンだけで、今までどれほど千晴が渉のことを大切にしてきたのかが感じられますよね。
少しずつで ゆっくりでいいって思ってたけど
キスだけじゃ足りない
その言葉と表情から、恋愛に不慣れで千晴の気持ちをただ受けとめるだけで精一杯の自分に合わせて、千晴がずっと気遣ってくれていたのだと知る渉。そのままの渉を受け入れて、彼の気持ちが自分に追いつくまで千晴は待ってくれていました。渉は千晴に触れられながら、自分も溢れてしまいそうなほどの想いを抱いていることを理解するのです。
君と夏のなか
大きく踏み出した2人。渉の手を繋いで歩き出す千晴。
…俺さ 頑張るから 渉が繋いでくれた手 離さずにいられるように
初めて出会った時には、渉が迷子で泣いていた千晴の手を引いてあげました。でも今は、千晴が自分の手を引いて前を歩いています。きっと千晴のその手は大きく温かったはずです。渉はしっかりと自分の手を握りしめる千晴の後ろ姿に、こみ上げてくるものを感じます。
…うん 頑張れ 千晴
「好きだ」とか「愛してる」とか、そんなストレートな言葉は一切無いけれど、2人にとってとてもふさわしい愛の言葉だと思います。
『君は夏のなか』でも物語の終盤で、2人が繋ぎ合う手が大きく描写されていました。渉を引き寄せた千晴の手。でも今作『君と夏のなか』では2人は手を繋ぎ、共に歩いています。そして辿り着く美しい夏の海。千晴と渉はこの先もきっと大丈夫だと思わせてくれる明るいラストシーンです。
ページをめくるたびに胸を温かいもので満たしてくれるこの素敵な2人の物語を、私はとても愛おしく思うのです。
2020/11/10追記
同じタイトル『君と夏の中』でこの巻収録のお話の続きの第6話がgateau12月号に掲載されたんですね。雑誌は読んでおらず単行本だけを購入しているので、すっかり完結した作品だと思ってブログに感想を書いていました。この後、千晴と渉にどんな物語が待っているのか楽しみです。第6話以降を収録した単行本が出たら、またぜひ感想を書きたいと思っています。
2022/09/15追記
待望の『君と夏の中』の2巻が発刊されました! ということで大学2年生になった彼らの物語について語りました。興味を持っていただけた方はこちらからどうぞ。