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BL『午前2時まで君のもの』について語りたい

皆さんは奥田枠先生『午前2時まで君のもの』という作品をご存知ですか? 実家のクリーニング店で働く道夫と彼の妻の灯、そして道夫の中学からの親友の恭一の3人の関係を中心に進んでいく物語です。読み進めながら、記憶というものが人生に深く影響するのだということにさまざまな感情を抱きました。

ということで、今回はこの『午前2時までは君のもの』について語っていきたいと思います。

性描写がある作品なので、未成年の方はごめんなさい。大人の方だけこの先をお読みくださいね。

ネタバレを含みますのでネタバレ苦手な方は注意してお読みください。

 

 

リセットされる日常

第1話は、恭一と道夫のセックスの場面で始まります。今日、1回だけでいいからという切実な気持ちに応えるように優しく抱いてくれた恭一に、目に涙を溜めて礼を言う道夫。

体に残り続ける抱かれた感触を噛み締めながら終電で帰宅した道夫は、親と営んでいるクリーニング店で洗うと言って持ち帰った恭一のシャツの伝票を作ると、家で自分の帰りを待っていた妻の灯と笑顔で会話を交わします。

続く2話は道夫の回想回。中学高校と一緒に過ごし、別々の大学に進学しても道夫はずっと変わらず恭一に恋をし続けていたことが丁寧に描かれていきます。

ここまで読み進めて、道夫が自分の気持ちを押し殺して灯と結婚したけれど、どうしても恭一を好きだという想いを消すことができずにいるという物語なのだろうなと思ったんです。しかしこの作品、そんなに単純なものではありませんでした。3話まできて初めて、8年前に事故に遭った影響で、道夫が新しい記憶を覚えていられないという記憶障害「前向性健忘症」を患っていることを提示してくるんですよ。

それは、事故の前までの記憶は残っていても、その後の記憶は常に次の日の朝には消えていってしまうということ。道夫の中では前日のことは無かったことになってしまうんです。道夫は朝起きて隣に見知らぬ女性が寝ていることに驚きますが、それは彼の妻の灯。道夫は毎朝、恭一が好きだったのになぜ他の人と結婚しているのかと混乱し、灯はどんな人で彼女のどこを自分は好きになったのか、答えの出せない自問を繰り返すことになります。そして灯は毎朝、自分のことを全く覚えていない道夫に対して「はじめまして」の挨拶をし続けてきたんです。

道夫は生きているのですから、時は積み重なって過去となっていきます。灯は道夫と共に5年を過ごしてきました。それは紛れもない事実ですが、毎日の記憶を留めておけない道夫にとっては、灯と夫婦として過ごしてきた時間どころか、彼女の存在自体さえもが無いのと同じ。それなのに、灯の中にだけ夫婦としての時間が積み重なっていくんですよね。

道夫は自分の残したメモを見て初めて妻だと認識するような、顔も名前も覚えていない女性を抱けるほど不誠実な人ではないし、何より恭一への想いがあります。「妻」として道夫のそばにいるというのに、どんなに一緒に過ごしても、夫婦としての関係を深めていくことができないという冷たい現実。灯の心が折れてしまうのも仕方ないことだと思います。

 

これからの未来で
誰かと新しい関係を築けないなんて
そんなことないよ

 

毎朝新しい経験も新しい人間関係もリセットされゼロに戻ってしまう毎日を過ごすことになった道夫に、そんな前向きな言葉をかけてくれたのは、灯だけだったのかもしれません。

両親が冷め切っていたという灯は、時を重ねながら少しずつ心を通わせ関係を深めていく夫婦像に憧れ、そんな関係を切望していたんだと思います。そして道夫は、過去にとどまらず自分で選んだ相手と前に進んでいける未来を灯とならば実現できるのではないかと、彼女の明るさにすがったんだと思うんです。道夫も灯も本気で「未来」を求めたのは紛れもない事実。でも道夫は翌日まで記憶を残しておけません。その時真剣に思ったことでも、次に目が覚めたときには忘れてしまい、結婚したという事実だけが残ることになるんです。

この作品の感想を読んでいて、なぜ道夫と結婚したのかと灯を責めるようなものも目にしました。でも、「耐えられない」と逃げ出してもおかしくない状況の中で、灯は5年もの間よく1人で頑張っていたなぁと私個人は思います。

 

新しい過去を

灯と結婚してしまった道夫を、恭一はどう思っていたのか。物語を読み始めてすぐに、恭一も道夫に想いを抱いていることが分かります。恭一と道夫は学生の頃からずっと両片想い。同性の友達として親友では収まりきれない想いを抱いていることをお互い伝えられないまま、道夫は事故に遭い、記憶を持続できなくなってしまったんです。

道夫は新しい記憶を持てなくなりましたが、過去の記憶はそのまま残っています。道夫は恭一のことはもちろん覚えていますし、幸い記憶が残らない以外の異常はありません。たとえ新しい思い出を作ることができなくても、変わらず道夫の親友として一緒に過ごせるのなら「今のままで構わない」と恭一は思ったのでしょう。

しかし、事故から8年。年月が経つにつれて道夫の覚えている21歳の時の記憶と現状との間の差が大きくなっていきます。道夫も恭一も年齢を重ねていき、道夫の知っている姿と今の恭一の容姿はどんどん離れていくでしょう。誰も昔のままではいられないんです。

変わらない毎日を過ごすことと前の進むことのできない日々を過ごすのは、まったく違います。道夫に一緒に未来に進もうと手を伸ばしたのは灯。今を守りたかった恭一は、友達の先へと踏み出せなかったんですよね。

道夫が好きだから、道夫が灯と結婚を決めたことも受け入れた恭一。だからこそ、21歳の気持ちのまま道夫が自分を求めてくれたことを、これ以上ない幸せだと感じたことでしょう。たとえ次の日に道夫が忘れてしまっていようと、好きだと言ってくれたことも、キスをしたことも体を重ねたことも、すべて確かな事実なのですから。道夫の中で無かったことになっていても、求められて彼を「初めて」抱くことを繰り返すことが恭一の唯一の支えになっていたんだと思います。

灯という妻がいるのを知っているのに、道夫を抱くことを続ける恭一。彼は決して道夫と灯の仲を壊そうとしているわけではありません。だからこそ道夫に2人がセックスをした記憶が残らないように、恭一は道夫を抱いたことを自分の中にだけしまいこみ、何事もなかったこととして振る舞っているんです。

道夫と灯の仲を壊したくはないという気持ちと、道夫を想う気持ち、そして道夫に体を重ねたことを覚えていてほしいと願う気持ちが1人の心の中に同時に存在していても、それは決しておかしなことではありませんよね。灯を拒んで恭一と何度もセックスしていることに道夫が気づくきっかけとなったのは、恭一とのLINEのやり取りでした。恭一は、道夫の記憶がリセットされてしまう前に、体を繋げて愛し合った事実を少しでも共有していたかったんじゃないかと思うんです。でもその結果、そのやり取りは恭一と道夫がセックスした記録となり、道夫の不貞行為の証拠にもなってしまったんです。

夫婦として灯に対する気持ちを深められないまま5年も一緒に暮らしていることも、灯を裏切って恭一とセックスしていることも、道夫が覚えていないだけで事実は無くなることはありません。無自覚のまま、愛せもしないのに灯を「妻」として縛りつけ、親友であり想いを寄せる相手であるのに恭一を「浮気相手」にしてしまっていた道夫。道夫は自分が記憶を残せないことを言い訳にしていられるほど、鈍感でも狡くもありません。

 

覚えていなくても
過去の自分がやったことの
責任は自分で取れ

 

次の日の自分へ宛てたリマインダー。それを読み、改めて自分が今まで灯や恭一にしてきたことを受け止めた道夫。灯には記入済みの離婚届を差し出して頭を下げ、彼女の愛情や夫婦として過ごした今までの日々に報いることができなかったことを詫び、恭一には互いの想いを確かめ合いながらも、新しい未来を見つけろと別れを告げます。そして道夫は次の日の自分に向けて「自分は誰かを愛する資格がない」とリマインダーに残すのです。

リセットされて始まる毎日を1人で過ごすことを選んだ道夫。それがどれほどの孤独か、道夫もわかっているはず。灯も恭一も道夫に謝り自分を責めますが、それでも道夫はどうにかして2人に償いたかったんですよね。

そんな道夫に恭一は未来を見つけろと言われました。しかしこれから先の未来に道夫がいないことなど耐えられるわけがないと、自分の気持ちを改めて伝え、道夫を抱きしめる恭一。中学の時からずっと、道夫の方から自分のところに来てくれるのを待つばかりだった彼が、道夫を離したくないとなりふり構わず手を伸ばすんですよ。

 

ミチがいるなら
過去でも未来でもいいから
一緒にいさせてよ…

 

誰かを傷つけても、それでも好きな人と結ばれたいと願ってしまうこと。それは罪ではないですよね。過去だろうと未来だろうと、ただ好きだから一緒にいたいと願う気持ちは道夫も同じ。どれだけの時間が経とうと、胸の中の恭一への想いを忘れてしまうことは決して無い。今までの自分の過ちを知ってもなお未来を求めてしまう自分の愚かさに涙を流しながら、恭一にくちづける道夫。

今の道夫は何も無いところから新しい関係を築くことができないかもしれません。でも、今まであった関係から新しい関係へと変えていくことならできるはず。そしてそれが可能なのは、過去と未来を共有し合う恭一だけなんですよね。道夫が事故に遭う前に恭一に出会えていて良かったと、心の底から思います。

そして2人で初めて迎えた朝。いつもとは違い、恭一の部屋で目覚めたことに驚く道夫。恭一に促されて見たスマホのリマインダーには「目の前の親友が恋人である」と記されています。

道夫が眠っている間に恭一によって書き換えられたリマインダー。そこからは妻であった灯の存在は消されており、そのリマインダーが記憶の代わりとなっている道夫にとって、彼女は知る必要がない程度の存在に変わってしまいます。

この場面、リマインダーを書き換えて道夫の記憶を操作をした恭一に彼の狡さや道夫への情念の深さを見てちょっと怖くも感じたりしましたが、それは「もう二度と道夫を悲しませない」という恭一の決意の強さの現れでもあるんだろうとも思いました。

これからの日々、記憶を残せない道夫に代わって、恭一が「新しい過去」を補完しながら少しずつ2人で進んでいくのでしょう。それは恭一にしかできないこと。遠回りをしてしまったけれど、道夫は本当に求めていた未来にたどり着くことができた、それは紛れもない事実なんです。